イスラーム教

概要

唯一神アッラーへの帰依を中心に据える一神教。ユダヤ教・キリスト教と同じアブラハムの宗教の系譜に連なりつつ、最後の預言者ムハンマドを通じてクルアーンが下されたとする。信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼という五行の実践と、啓示された法(シャリーア)に基づく生活を通じて、来世における審判を見据えた生を説く。

詳細(学術的な解説)

クルアーンとハディース

イスラーム教の教義の根本典拠は、神の啓示そのものとされるクルアーン(114章から成り、ムハンマドに約23年にわたって下されたとされる)と、預言者ムハンマドの言行を伝える伝承であるハディースである。ハディースは伝承の系譜(イスナード)の信頼性に基づいて真正性が格付けされ、クルアーンを補完・敷衍する第二の典拠として位置づけられる。両者を解釈し、信徒の生活全般(礼拝・商取引・刑罰・家族法など)を導く法体系がシャリーア(イスラーム法)であり、法学者(ウラマー)による法解釈の方法論(フィクフ)を通じて、ハナフィー派・マーリク派・シャーフィイー派・ハンバル派などの複数の法学派が体系化されてきた。

五行と六信

イスラーム教徒の実践的な柱として、信仰告白(シャハーダ)・礼拝(サラート、1日5回)・喜捨(ザカート)・断食(サウム、ラマダーン月)・巡礼(ハッジ、メッカへの生涯に一度の巡礼)という「五行」が定められている。教義面では、神・天使・啓典・預言者・来世・定命(カダル)への信仰から成る「六信」が信仰の骨格をなす。これらは実践(五行)と信条(六信)の両面から信徒の生活を規定する枠組みとして機能してきた。

スンナ派とシーア派

ムハンマドの死後、共同体の指導者(カリフ)の継承をめぐる対立から、共同体の合意(スンナ、預言者の慣行)と選挙による指導者選出を重視するスンナ派(多数派)と、預言者の血統(特に従弟アリーとその子孫)に連なる指導者(イマーム)への従属を宗教的に必須とするシーア派に分岐した。この分岐は今日に至るまでイスラーム世界における最大の宗派的分断であり、法学的・神学的な相違(イマームの無謬性の教義など)を伴って独自の展開を遂げてきた。

カラーム(イスラーム神学)と哲学の緊張

アシュアリー派に代表されるカラーム(思弁神学)は、あらゆる出来事を神の意志による直接的な創造とみなす機会原因論的な立場を取り、ファーラービーやイブン・スィーナー(アヴィケンナ)らが継承したギリシア哲学(特にアリストテレスの必然的因果律・宇宙の永遠性)を、被造物に神から独立した必然性を認めるものとして批判した。アル=ガザーリーはこの批判を『哲学者の矛盾』で体系的に展開し、哲学者の主張の多くが証明不可能であるだけでなく信仰にとって危険であると論じた。これに対しアンダルスの哲学者アヴェロエス(イブン・ルシュド)は『矛盾の矛盾』で反論し、理性による探究と啓示の真理は究極的に一致すると擁護した。この論争は、理性と信仰の関係をめぐるイスラーム思想史上の画期をなし、後の中世スコラ哲学(トマス・アクィナスら)にも大きな影響を与えた。

成立の歴史

ムハンマド(570年頃-632年)は、隊商都市メッカの商人として生まれ、40歳頃から啓示を受けたとされる。多神教的な部族社会において唯一神への帰依と貧者への配慮を説いたため迫害を受け、622年にメディナへ移住した(ヒジュラ、イスラーム暦元年)。メディナでは信仰共同体(ウンマ)が政治的な共同体としても組織され、部族の血縁ではなく信仰による結合という新たな社会編成が生まれた。630年のメッカ無血開城を経てアラビア半島の大半が統合され、その死後わずか一世紀で、イスラーム勢力はイベリア半島から中央アジアに及ぶ広大な領域に達した。

タウヒードと偶像の禁止

イスラーム教の教義の核心は、神の唯一性・不可分性を意味する「タウヒード」にある。神に何かを並べること(シルク)は最大の罪とされ、これがキリスト教の三位一体やイエスの神性を否定する根拠となる。イスラームにおいてイエス(イーサー)は尊敬すべき預言者の一人ではあるが神ではなく、十字架での死も否定される。神を形象化することへの厳格な禁止は、宗教美術を具象から幾何学文様(アラベスク)とカリグラフィーへと向かわせ、独自の造形文化を生んだ。

啓典の民と法的地位

ユダヤ教徒・キリスト教徒は、同じ神から啓示を受けた「啓典の民」として位置づけられ、イスラーム国家においては人頭税(ジズヤ)を納めることで信仰の保持と共同体の自治を認められる庇護民(ズィンミー)とされた。これは同時代のヨーロッパにおける宗教的少数派の扱いと比べれば寛容な制度であったが、法的には二級の身分であり、対等な市民権とは異なる。オスマン帝国のミッレト制はこの枠組みを制度化したものである。

ジハードの概念

ジハードは本来「(神の道における)努力・奮闘」を意味する語であり、伝統的には自己の内なる欲望と戦う「大ジハード」と、共同体の防衛のための戦いである「小ジハード」に区別されてきた。古典法学は、開戦の要件・非戦闘員の保護・捕虜の扱いなどについて詳細な規定を設けている。20世紀以降、一部の急進的な運動がこの概念を、統治者や外部勢力に対する無差別的な武力行使の正当化として用いたことで、国際的には「聖戦」という誤解を伴う訳語とともに広く知られるようになったが、これは伝統的な法学の理解からは大きく逸脱したものである。

イスラームの学問と文明

8世紀から13世紀にかけてのアッバース朝を中心とする時代、バグダードの「知恵の館」ではギリシア語文献のアラビア語への大規模な翻訳が進められ、フワーリズミーによる代数学(アルジェブラ)、イブン・アル=ハイサムの光学、イブン・スィーナーの『医学典範』(ヨーロッパの大学で数百年にわたり教科書として用いられた)など、独自の学問的成果が生まれた。イベリア半島のトレドを経由してこれらがラテン語に訳されたことは、12世紀ルネサンスと後のヨーロッパのアリストテレス受容の直接的な前提をなしている。

スーフィズム

法学的・神学的な議論とは別に、神との合一的・直接的な体験を求める内面的・神秘主義的な実践(スーフィズム、イスラーム神秘主義)も、イスラーム教の重要な一潮流として各地域に広く展開してきた。ジャラール・ウッディーン・ルーミーの詩作品に代表される文学的表現や、師(シャイフ)から弟子への霊的伝承を組織化した教団(タリーカ)を通じて、スーフィズムは正統法学とは異なる回路でイスラーム教を民衆レベルに広める上で大きな役割を果たした。イブン・アラビーの「存在一性論」は、神と世界の関係をめぐる思弁を極点まで進めたものとして、その後のイスラーム思想全体に深い影響を残している。他方、法学者の側からはスーフィーの実践が逸脱とみなされることもあり、「我は真理なり」と語ったハッラージュが処刑された事件(922年)はその緊張を象徴する。アル=ガザーリーは、法学・神学とスーフィズムの調停を果たした人物として「イスラームの証明」と称される。

近現代の潮流

18世紀のアラビア半島に興ったワッハーブ運動は、後代の慣習や聖者崇敬を退けて初期共同体への回帰を説き、サウジアラビア建国の思想的基盤となった。19世紀以降、ヨーロッパ列強の進出に直面するなかで、アフガーニーやムハンマド・アブドゥフらは、イスラームと近代的な理性・科学の両立を説く改革運動(イスラーム近代主義)を展開した。20世紀には、世俗的な国民国家の枠組みに対して、イスラーム法に基づく社会秩序を求める諸運動が各地に生まれ、その一部は急進化した。今日のムスリム人口は世界で約19億人と推計され、最大の人口を擁するのはインドネシアであって、アラブ諸国は全体の2割程度にすぎない。

日本での受容と研究

日本でのイスラーム研究は、戦前は主に大陸政策との関わりで進められた時期を経て、戦後に本格的な学術研究として確立した。井筒俊彦は、日本人として初めてクルアーンを原典から直接邦訳し(1957-58年)、さらにイスラーム神秘主義と東洋思想全般を横断する比較哲学(『イスラーム思想史』『意識と本質』)を英語圏でも高く評価される水準で展開した。

代表人物

  • ムハンマド創始者

    570年 - 632年

    570年ごろ - 632年、アラビア半島メッカに生まれたイスラーム教の預言者。610年ごろから神アッラーの啓示を受けたとされ、その言葉は後にクルアーンとしてまとめられた。イスラーム共同体(ウンマ)の礎を築いた、イスラーム教における最後にして最終の預言者。

  • アル=ガザーリー主要人物

    1058年 - 1111年

    11-12世紀のペルシア出身のイスラーム神学者・法学者・神秘主義者。ギリシア哲学(アリストテレス主義)の必然的因果律を批判し、あらゆる出来事は神の意志による直接の創造行為であるとする機会原因論的な立場から、哲学者たちの主張を論駁した。

代表書籍

  • 哲学者の矛盾

他思想との関係

  • キリスト教と関連する

    ユダヤ教・キリスト教と同じアブラハムの宗教の系譜に連なり、唯一神への信仰、預言者の系譜、来世における審判といった主題を共有する。

  • 実存主義と対立する

    神が啓示した法(シャリーア)が生活全般を導く指針であるとするイスラーム教と、あらかじめ定められた本質や体系を排し個人の主体的な選択に意味の創出を委ねる実存主義は、生の意味の根拠づけ方において対照的である。

  • アリストテレス主義と関連する

    アヴェロエスら中世イスラーム世界の哲学者たちはアリストテレス哲学に浩瀚な注釈を著し、理性と信仰の調和を模索した。アル=ガザーリーがこの哲学者たちの主張を『哲学者の矛盾』で論駁したのに対し、アヴェロエスは『矛盾の矛盾』で反論するという論争が、中世イスラーム哲学における代表的な対立として知られる。