キリスト教
概要
神の存在とその意志への信仰を中心に据える一神教。原罪・救済・死後の世界といった教義を通じて、人間の生と苦しみに意味を与える枠組みを提供する。
詳細(学術的な解説)
概要と教義の骨格
唯一神への信仰を中心に据える一神教であり、旧約聖書(ユダヤ教と共有する聖典)と新約聖書(イエス・キリストの生涯と使徒たちの教えを記す文書群)を正典とする。神が人となって受肉したとするキリスト論、人類の罪を贖うためのキリストの死と復活という贖罪論、終末における審判と永遠の生命という終末論が、教義全体を貫く骨格をなす。
歴史的形成過程
1世紀のパレスチナにおけるイエスの宣教活動とその処刑・復活の出来事を起点とし、パウロによる異邦人(非ユダヤ人)への伝道を通じて地中海世界全域へ拡大した。4世紀のコンスタンティヌス帝によるミラノ勅令(313年)でローマ帝国内での信仰の自由が認められ、392年には国教化された。ニカイア公会議(325年)・コンスタンティノープル公会議(381年)・エフェソス公会議(431年)・カルケドン公会議(451年)という一連の公会議を通じて、三位一体論とキリスト論(神性と人性の関係)の正統教義が確立された。
中心概念
三位一体論は、父(神)・子(キリスト)・聖霊が同一の神性(本質)を共有しつつ、三つの異なるペルソナ(位格)として存在するとする教義である。原罪論は、最初の人間アダムの堕落によって人類全体が神との関係性における傷を負って生まれるとする人間観であり、これに対する神からの一方的な救いの働きかけが恩寵と呼ばれる。恩寵と人間の自由意志との関係(ペラギウス論争、後の予定説論争)は、教派を横断する長期にわたる神学的争点であり続けた。
教派の分岐
1054年の東西教会分裂(大シスマ)により、コンスタンティノープルを中心とする東方正教会とローマを中心とする西方教会(カトリック教会)が公式に分離した。対立点には、聖霊の発出をめぐる神学的論争(フィリオクェ問題)や教皇の首位権をめぐる教会統治のあり方が含まれる。16世紀にはマルティン・ルターによる贖宥状批判(1517年の九十五か条の論題)を発端とする宗教改革が起こり、信仰義認論(善行ではなく信仰のみによって義とされるとする立場)を掲げるプロテスタント諸派(ルター派、カルヴァン派、聖公会など)が西方教会から分離した。
哲学との接続
中世スコラ学では、アウグスティヌス(354-430年)の新プラトン主義的な神学的枠組みと、トマス・アクィナス(1225-1274年)によるアリストテレス哲学とキリスト教信仰の体系的な統合という二つの潮流が形成された。アクィナスの『神学大全』は、理性による自然神学的な神の存在証明(五つの道)と啓示神学とを調停する試みとして、後のカトリック神学の基準的な体系となった。近代以降は、こうした理性主義的な神学に対し、キェルケゴールが単独者としての実存的な信仰の飛躍を重視する立場を対置し、20世紀にはバルトらによる危機神学(弁証法神学)が、自由主義神学の楽観主義への批判として展開された。
聖書の成立と正典化
キリスト教の正典は、ユダヤ教から受け継いだ旧約聖書と、1世紀後半から2世紀初頭にかけて成立した新約聖書からなる。新約の中核をなす四福音書のうち、マルコが最も早く(70年前後)、マタイとルカがマルコと語録資料(Q資料)を用いたとする二資料仮説が、今日の標準的な学説である。ヨハネ福音書は他の三つ(共観福音書)とは異質な神学的構成を持つ。
パウロの真正書簡(ローマ、コリント前後、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケ一、フィレモン)は福音書より早く書かれており、現存する最古のキリスト教文書である。正典の範囲が現在の27文書に確定するのは4世紀後半のことで、それ以前には多くの外典・偽典が流通していた。1945年にエジプトで発見されたナグ・ハマディ文書は、正統教義が確立する以前のグノーシス主義的な多様性を伝える資料として、初期キリスト教研究を大きく変えた。
三位一体と公会議の教義形成
「父・子・聖霊は一つの神の三つの位格である」という三位一体の教義は、聖書に明文の定義があるわけではなく、数世紀にわたる論争を経て公会議で定式化された。ニカイア公会議(325年)は、子は父に「造られた」とするアリウス派を退けて子と父の同一本質(ホモウーシオス)を確認し、カルケドン公会議(451年)は、キリストにおいて神性と人性が「混同せず、変化せず、分離せず、分割されずに」結合しているとする両性論を定めた。この定式を受け入れなかった諸教会——東方諸教会(コプト、シリア、アルメニア、エチオピアなど)とアッシリア東方教会——は、以後独自の伝統を歩んでいる。
政治との結合と分離
313年のミラノ勅令による公認、392年の国教化を経て、キリスト教は迫害される少数派からローマ帝国の支配的な宗教へと転じた。中世西欧では教皇権と皇帝権の関係が主要な政治問題となり(叙任権闘争、カノッサの屈辱)、アウグスティヌスの『神の国』が提示した地上の国と神の国の二元的な構図は、この関係をめぐる思考の基本枠組みを提供した。宗教改革後の宗教戦争を経て、ウェストファリア条約(1648年)は主権国家体制の起点となり、やがて信教の自由と政教分離という近代的な原則が形成されていく。この分離が、キリスト教内部の対立を収拾する必要から生まれた点は、しばしば指摘される歴史の逆説である。
神義論と近代の挑戦
啓蒙時代以降、聖書の歴史的・文献学的批判(高等批評)、進化論との緊張、そして悪の問題——全能かつ全知かつ善なる神のもとで、なぜ悪と無辜の苦しみが存在するのかという神義論の課題——をめぐって、キリスト教は近代思想からの持続的な挑戦にさらされてきた。ライプニッツが「最善世界」論によってこれに応じたのに対し、ヴォルテールはリスボン大地震(1755年)を前にその楽観を痛烈に諷刺した。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のイワンに、子どもの苦しみを代償とする調和など受け取りを拒否すると語らせた場面は、この問題の文学的な極点をなす。20世紀にはホロコーストを経て、アウシュヴィッツ以後に神について語ることは可能かという問いが、ユダヤ教・キリスト教双方の神学の中心的な課題となった。
20世紀以降の神学と現代の状況
20世紀の神学は、カール・バルトが自由主義神学の人間中心性を批判し、神の言葉の絶対的な他者性を強調した弁証法神学から出発した。ボンヘッファーはナチスへの抵抗のなかで「宗教なきキリスト教」を模索し処刑され、ティリッヒは実存的な「究極的関心」として信仰を捉え直した。カトリック教会は第二バチカン公会議(1962-65年)で、典礼の現地語化、他宗教との対話、信教の自由の承認といった大きな転換を行った。20世紀後半以降は、ラテンアメリカにおける解放の神学、フェミニスト神学、黒人神学など、伝統的な教義を社会的・政治的文脈から再解釈する動きが活発化している。
信徒数では今日なお世界最大の宗教(約24億人)だが、その重心は欧米から南半球(サハラ以南アフリカ、ラテンアメリカ、アジア)へと大きく移動しており、欧州では世俗化が進行する一方、ペンテコステ派を中心とする急速な成長が非西洋圏で続いている。
日本での受容
1549年のフランシスコ・ザビエル来日に始まるキリシタンの時代は、17世紀初頭の禁教令と激しい弾圧によって断絶し、以後250年にわたり潜伏キリシタンが独自の信仰形態を保持した。明治期の解禁後は、内村鑑三の無教会主義、新島襄・新渡戸稲造らの教育活動を通じて、信徒数は少ないながらも知識人層と教育・福祉の分野に大きな影響を及ぼした。遠藤周作の『沈黙』は、殉教と棄教、そして異文化における信仰の可能性という主題を通じて、日本のキリスト教受容の困難を文学的に問い直した作品として国際的にも読まれている。
代表人物
- アウグスティヌス主要人物
354年 - 430年
古代末期のキリスト教神学者・哲学者。『告白』『神の国』の著者で、原罪・恩寵論を体系化し、西方教会に大きな影響を与えた。
- トマス・アクィナス主要人物
1225年 - 1274年
中世スコラ哲学を代表する神学者。アリストテレス哲学とキリスト教信仰を統合した『神学大全』で知られる。
- アンブロシウス主要人物
340年 - 397年
340年ごろ - 397年、古代末期のミラノ司教。説教家として知られ、その説教に感化されたアウグスティヌスがキリスト教に回心する契機を作った。
代表書籍
- 神学大全(1274年)
他思想との関係
ストア派から影響を受けた
初期キリスト教の倫理思想は、ローマ帝政期のストア派(特にセネカやエピクテトス)から禁欲・摂理受容の思想的影響を受けた。
実存主義がキリスト教から影響を受けた
実存主義の先駆者キェルケゴールはキリスト教思想家であり、単独者としての信仰の飛躍を説いた。
功利主義がキリスト教と対立する
結果(快苦の総量)で行為の善悪を判断する功利主義と、神の意志・義務に従うことを重んじるキリスト教倫理は、道徳判断の根拠が異なる。
カント主義がキリスト教と関連する
カントの義務倫理はプロテスタント的な道徳文化を背景に持つとされるが、道徳法則の根拠を神の意志ではなく人間の実践理性そのものに置く点で、キリスト教倫理とは一線を画す。
仏教がキリスト教と対立する
創造神への信仰と不滅の魂を前提とするキリスト教に対し、仏教(特に初期仏教)は創造神を立てず、固定的な自己(アートマン)の存在も否定する(無我)。
イスラーム教がキリスト教と関連する
ユダヤ教・キリスト教と同じアブラハムの宗教の系譜に連なり、唯一神への信仰、預言者の系譜、来世における審判といった主題を共有する。
ニヒリズムがキリスト教と対立する
ニーチェは「神は死んだ」という言葉で、キリスト教的な価値・道徳の根拠がもはや近代人にとって説得力を持たなくなった状況を診断し、その道徳を「奴隷道徳」として批判した。