功利主義
概要
行為の善悪を、それがもたらす快楽・苦痛の総量(結果)によって判断する倫理理論。「最大多数の最大幸福」を目指す帰結主義の代表的な立場。
詳細(学術的な解説)
前史と「最大多数の最大幸福」
功利主義の中心的な発想——行為の正しさを、それが増進する幸福の量によって測るという考え——は、ベンサム以前の18世紀イギリス・イタリアの思想圏に既に現れていた。フランシス・ハチスンは1725年の著作で「最大多数の最大幸福をもたらす行為が最善である」と述べ、ヒュームは徳の基準を社会にとっての有用性(utility)に求めた。刑法改革者ベッカリーアの『犯罪と刑罰』(1764年)や、化学者でもあったジョゼフ・プリーストリーの政治論も同じ方向を指しており、ベンサム自身、この標語を彼らから得たと回想している。
ベンサムの功利計算と法制度改革
ジェレミー・ベンサム(1748-1832年)は『道徳および立法の諸原理序説』(1789年)で、「自然は人類を苦痛と快楽という二人の主権者の支配のもとに置いた」という宣言から出発し、快楽と苦痛を数量化可能なものとみなした。行為がもたらす快苦の総量を計算する「功利計算」は、強さ・持続性・確実性・遠近性・多産性・純粋性・範囲という7つの尺度からなる。
ベンサムにとって功利原理は個人の道徳律にとどまらず、何よりも立法者のための原理だった。慣習法(コモン・ロー)の混沌を「ナンセンス」として批判し、明晰な成文法典による法体系の再構築を主張したこと、刑罰を応報ではなく将来の犯罪抑止という帰結によって正当化したこと、監視効率を極大化した監獄の設計案(パノプティコン)を生涯にわたり提唱したことは、いずれもこの立法者的関心の産物である。同時代としては例外的に、動物の道徳的地位について「問題は彼らが理性を持つかでも語りうるかでもなく、苦しみうるかである」と記した一節は、後の動物倫理の出発点として繰り返し引かれる。
ミルによる質的快楽主義への修正
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873年)は、ベンサムの盟友ジェイムズ・ミルの子として徹底した功利主義的英才教育を受けたが、20歳での精神的危機を経て、快楽を量だけで測るベンサムの立場を修正した。『功利主義』(1863年)では快楽に質的な差異を認め、「満足した豚であるより不満足な人間である方がよい、満足した愚か者であるより不満足なソクラテスである方がよい」として、知性・感情・想像力に関わる高次の快楽を身体的快楽の上位に位置づけた。両者を比較する基準は、双方を経験した人々の選好に求められる。
またミルは『自由論』(1859年)で、他者に危害を加えない限り個人の行動に社会が介入すべきではないとする危害原理を、自然権ではなく「進歩する存在としての人間の恒久的利益」という功利主義的な論拠のみによって正当化した。『女性の隷従』(1869年)における女性の法的平等の主張も、同じ功利の観点から導かれている。
シジウィックによる体系化
ヘンリー・シジウィックの『倫理学の方法』(1874年)は、古典的功利主義の最も厳密な理論的定式化とされる。シジウィックは、利己主義・直観主義・功利主義という三つの方法を比較検討し、常識道徳の諸規則が実は功利原理によって体系的に説明されうることを示した。他方で、自己の幸福を追求する合理性と、全体の幸福を追求する合理性のいずれをも理性が要求するように見えるという「実践理性の二元性」を最後まで解消できない難問として残した点でも、その誠実さが高く評価されている。
行為功利主義と規則功利主義
個々の行為の結果を直接評価する行為功利主義に対し、一般に遵守されたときに最大の効用をもたらす規則に従うべきだとする規則功利主義が20世紀に展開された。後者は、行為功利主義が個別の場面で直感に反する結論(無実の人を処罰することで暴動を防ぐ、少数者の臓器を摘出して多数を救う)を導きうるという問題への対応として提起された。ただし規則功利主義に対しては、規則の遵守が明らかに効用を減らす場面でなお規則に従うのは「規則崇拝」であり、例外を認めれば結局は行為功利主義に崩れてしまうという批判(規則功利主義の不安定性)が向けられている。
R・M・ヘアは、日常の場面では確立した道徳的直観に従い(直観レベル)、直観同士が衝突する場面でのみ功利計算に訴える(批判レベル)という二層功利主義を提案し、この難点への応答を試みた。
幸福とは何か——快楽説・選好説・客観的リスト説
功利主義が最大化すべき「幸福」の内実についても、複数の立場が分岐している。快楽という主観的経験の総量とみなす古典的な快楽説、当人の選好が実際に充足されることとみなす選好功利主義(ヘア、シンガーの初期の立場)、そして快楽や選好とは独立に、知識・友情・健康といった諸価値のリストによって幸福を捉える客観的リスト説である。ロバート・ノージックの「経験機械」の思考実験——脳を機械につなげば望みどおりの快い経験をいくらでも得られるとして、あなたはそれを選ぶか——は、快楽説だけでは人が実際に価値を置くものを捉えきれないことを示す反例として広く用いられている。
人口倫理と「忌まわしい結論」
幸福の総量を最大化するという原理を、これから生まれる人々にまで拡張すると難問が生じる。デレク・パーフィットは『理由と人格』(1984年)で、総和功利主義に従う限り、各人の生の質が「かろうじて生きるに値する」水準まで下がっても、人口が十分に多ければ、少数の非常に幸福な人々からなる社会より望ましいことになってしまうと指摘し、これを「忌まわしい結論」と名づけた。総和ではなく平均の幸福を最大化する平均功利主義はこの帰結を避けるが、今度は「既に不幸な人々のいる社会に、平均よりわずかに不幸な幸福な人を加えるのは悪いことになる」という別の反直観を生む。人口倫理は今日なお未決着の領域である。
批判
功利計算が個人の権利や正義を、全体の幸福量のためにやすやすと踏みにじりうるという批判(少数者の犠牲の正当化)は、ロールズをはじめとする義務論・契約論の陣営から一貫して寄せられてきた。ロールズは『正義論』で、功利主義が「諸個人の別個性」を真剣に受け取らず、社会全体をあたかも一人の人間であるかのように扱って個人間の犠牲を相殺してしまうと批判した。
バーナード・ウィリアムズは、功利主義が行為者に対し、自らの人生を意味づけてきた根本的な関心(グラウンド・プロジェクト)をも全体の効用のために放棄することを要求する点で、人格の「同一性(インテグリティ)」を破壊すると論じた。このほか、異質な諸価値を単一の尺度に還元することへの疑問(通約不可能性の問題)、功利計算が要求する将来の帰結の予測可能性への懐疑、そして常に最善を為すよう求める功利主義の「要求過多性」も、古典的な批判として繰り返されている。
現代における影響と効果的利他主義
功利主義的な帰結計算の発想は、費用便益分析をはじめとする公共政策の評価手法や、限られた資源の配分を論じる医療倫理(QALY=質調整生存年による介入の優先順位づけ)に、今日でも広く用いられている。
ピーター・シンガーは、影響を受けるすべての存在の利益を平等に配慮すべきだとする立場から、動物の苦痛を人間の苦痛と同等に扱わないことを「種差別(スピーシーシズム)」として批判し(『動物の解放』1975年)、また遠く離れた場所の貧困に対する富裕国の人々の義務を論じた。この延長線上に、寄付先の費用対効果を実証的に評価して支援を最大化しようとする「効果的利他主義」の運動が2000年代以降に生まれている。
日本での受容
明治初期、西周はミルの『功利主義』を『利学』(1877年)として訳出し、utility の訳語として「利」を当てた。中村正直による『自由之理』(1872年、『自由論』の翻訳)は、福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並んで明治の啓蒙思想に大きな影響を与え、個人の自由と社会の進歩を功利の観点から結びつける議論を日本語圏に導入した。なお「功利」という訳語は日本語では利己的な打算という語感を伴いやすく、功利主義への初期の反発の一因になったとも指摘される。
代表人物
- ジェレミー・ベンサム創始者
1748年 - 1832年
功利主義の創始者。快楽と苦痛の量的計算(功利計算)によって行為の善悪を判断する思想を体系化した。
- ジョン・スチュアート・ミル主要人物
1806年 - 1873年
ベンサムの功利主義を発展させ、快楽の質的差異を認める修正を加えた。『自由論』の著者としても知られる。
代表書籍
- 功利主義論(1863年)
他思想との関係
キリスト教と対立する
結果(快苦の総量)で行為の善悪を判断する功利主義と、神の意志・義務に従うことを重んじるキリスト教倫理は、道徳判断の根拠が異なる。
ストア派と対立する
快楽を善とする功利主義と、快楽を善悪に無関係な「無関心なもの」とみなすストア派は、幸福の捉え方で対立する。
エピクロス主義から派生した
ベンサムは快楽・苦痛を善悪の唯一の尺度とするエピクロス派の快楽主義を、功利計算という体系的な理論へと発展させた。
カント主義が功利主義と対立する
行為の道徳性を動機・義務の普遍化可能性で判断する義務論(カント主義)と、結果としてもたらされる快苦の総量で判断する帰結主義(功利主義)は、近代倫理学における代表的な対立である。
自由主義が功利主義と関連する
功利主義者ジョン・スチュアート・ミルは同時に自由主義の代表的論客でもあり、『自由論』で個人の自由を最大幸福の観点から擁護した。
アリストテレス主義が功利主義と対立する
行為者の人格的な卓越性を重んじるアリストテレス主義と、行為がもたらす結果の快苦計算を重んじる功利主義は、徳倫理学と帰結主義という規範倫理学の異なる立場として対比される。
プラグマティズムが功利主義と関連する
どちらも観念・行為の帰結に着目する点で近いが、功利主義が行為の善悪を快苦の帰結で判断するのに対し、プラグマティズムは信念・観念の真理性そのものを行動の帰結によって判定する点で射程が異なる。