思想関係図
思想同士の影響・対立・関連の関係を図で俯瞰できます。
初期キリスト教の倫理思想は、ローマ帝政期のストア派(特にセネカやエピクテトス)から禁欲・摂理受容の思想的影響を受けた。
実存主義の先駆者キェルケゴールはキリスト教思想家であり、単独者としての信仰の飛躍を説いた。
自己選択によって自らを作り上げる個人(実存主義)と、家族・社会的役割の中で人格を陶冶する個人(儒家思想)は、自己のあり方について対照的な立場をとる。
結果(快苦の総量)で行為の善悪を判断する功利主義と、神の意志・義務に従うことを重んじるキリスト教倫理は、道徳判断の根拠が異なる。
快楽を善とする功利主義と、快楽を善悪に無関係な「無関心なもの」とみなすストア派は、幸福の捉え方で対立する。
どちらも徳の涵養と自己規律を重んじる実践哲学であり、感情の統御を通じた人格の完成を目指す点で共通する。
人為的な規範・作為を離れることを説く道家思想と、礼という人為的規範による秩序づけを重んじる儒家思想は、中国思想史上しばしば対比される。
ベンサムは快楽・苦痛を善悪の唯一の尺度とするエピクロス派の快楽主義を、功利計算という体系的な理論へと発展させた。
快楽こそ人生の目的とするエピクロス派と、快楽を善悪に無関係な「アディアフォラ(indifferent)」とみなすストア派は、古代ヘレニズム哲学における代表的な対立である。
行為の道徳性を動機・義務の普遍化可能性で判断する義務論(カント主義)と、結果としてもたらされる快苦の総量で判断する帰結主義(功利主義)は、近代倫理学における代表的な対立である。
カントの義務倫理はプロテスタント的な道徳文化を背景に持つとされるが、道徳法則の根拠を神の意志ではなく人間の実践理性そのものに置く点で、キリスト教倫理とは一線を画す。
仏教自体はインドで独立に成立したが、中国に伝来した後は道家思想の語彙・概念を借りて理解される(格義)過程を経て、禅(中国では禅宗)という道家思想との実質的な融合形態を生んだ。
創造神への信仰と不滅の魂を前提とするキリスト教に対し、仏教(特に初期仏教)は創造神を立てず、固定的な自己(アートマン)の存在も否定する(無我)。
外的な出来事への執着を手放し、心の平静を目指す点で、仏教の離欲とストア派のアパテイア(不動心)はしばしば比較される。ただし根拠づけとなる形而上学は大きく異なる。
私有財産・市場経済を個人の自由の基盤とみなす自由主義と、それを階級搾取の根源として廃絶を目指すマルクス主義は、近現代政治思想における代表的な対立である。
功利主義者ジョン・スチュアート・ミルは同時に自由主義の代表的論客でもあり、『自由論』で個人の自由を最大幸福の観点から擁護した。
理性に基づく個人の権利・進歩を重んじる自由主義と、歴史的に培われた伝統・慣習を重んじる保守主義は、近代政治思想の基本軸をなす対立として位置づけられることが多い。
伝統・秩序を尊重し漸進的改革を説く保守主義と、既存秩序の革命的な転覆を説くマルクス主義は、変革の方法をめぐって真っ向から対立する。
階層的秩序と伝統的権威を擁護する保守主義と、あらゆる強制的な階層構造の廃絶を目指すアナキズムは、秩序に対する評価が対極に位置する。
資本主義批判を共有しつつも、国際労働者協会(第一インターナショナル)でのバクーニンとマルクスの対立に象徴されるように、国家権力の扱いをめぐってアナキズムとマルクス主義は激しく対立した。
行為者の性格の卓越性(徳)を倫理の中心に置くアリストテレス主義と、行為の普遍化可能性という規則によって道徳性を判断するカント主義は、義務論と徳倫理学という規範倫理学の異なる立場として対比される。
行為者の人格的な卓越性を重んじるアリストテレス主義と、行為がもたらす結果の快苦計算を重んじる功利主義は、徳倫理学と帰結主義という規範倫理学の異なる立場として対比される。
どちらも人間を超えた自然の秩序(タオ/ロゴス)を受け入れることを説くが、タオは人為の完全な放棄を、ストア派は理性による能動的な受容を重んじる点で異なる。
どちらも徳の涵養を倫理の中心に据える古代ギリシアの実践哲学だが、アリストテレス主義が中庸としての徳と外的善(友人・財産等)の一定の必要性を認めるのに対し、ストア派は徳のみを唯一の善とし外的なものを「無関心なもの」とみなす点で異なる。
どちらも個々の行為の規則適合性よりも、実践を通じて陶冶される人格の卓越性(徳)を倫理の中心に据える点で、東西の徳倫理学的な伝統として比較されることが多い。
ユダヤ教・キリスト教と同じアブラハムの宗教の系譜に連なり、唯一神への信仰、預言者の系譜、来世における審判といった主題を共有する。
神が啓示した法(シャリーア)が生活全般を導く指針であるとするイスラーム教と、あらかじめ定められた本質や体系を排し個人の主体的な選択に意味の創出を委ねる実存主義は、生の意味の根拠づけ方において対照的である。
道徳的教化と礼による自発的な秩序形成を説く儒家思想の徳治主義と、明文化された法と信賞必罰による強制的な統治を説く法家思想は、中国古代の政治思想における代表的な対立である。
君主の絶対的権威と法による強制的な統治を徹底する法家思想と、国家をはじめとするあらゆる強制的な権力構造の廃絶を目指すアナキズムは、国家権力への態度において対極に位置する。
同じ南アジアに起源を持ち、輪廻転生(サンサーラ)・業(カルマ)・そこからの解脱という主題を共有する。仏教はヒンドゥー教の枠組みに対する改革運動としても生まれた。
ハイデガーの現象学的存在論(『存在と時間』)はサルトルら実存主義者に直接的な影響を与え、実存主義は現象学を哲学的源流の一つとする。
フッサールの現象学は、経験の可能性の条件を意識の側から批判的に探究するというカントの超越論的な問いの立て方を引き継ぎつつ、意識に現れる事象そのものの記述へと方法を展開した。
どちらも観念・行為の帰結に着目する点で近いが、功利主義が行為の善悪を快苦の帰結で判断するのに対し、プラグマティズムは信念・観念の真理性そのものを行動の帰結によって判定する点で射程が異なる。
普遍的な先験的原理から出発するカント主義に対し、プラグマティズムは観念の意味・真理性を経験的な帰結から実験的に評価すべきだとし、方法論的に対立する。
ニーチェは「神は死んだ」という言葉で、キリスト教的な価値・道徳の根拠がもはや近代人にとって説得力を持たなくなった状況を診断し、その道徳を「奴隷道徳」として批判した。
普遍的な道徳法則の存在を前提とするカント主義に対し、ニヒリズムはそうした道徳の客観的根拠そのものの崩壊を診断する。
サルトルやカミュら実存主義者は、伝統的価値の崩壊というニーチェの診断を出発点として引き受けつつ、それでもなお主体的な選択によって意味を作り出す可能性を模索した。
アヴェロエスら中世イスラーム世界の哲学者たちはアリストテレス哲学に浩瀚な注釈を著し、理性と信仰の調和を模索した。アル=ガザーリーがこの哲学者たちの主張を『哲学者の矛盾』で論駁したのに対し、アヴェロエスは『矛盾の矛盾』で反論するという論争が、中世イスラーム哲学における代表的な対立として知られる。